子どもにAIを触れさせるべきか──学びの本質から考える教育とテクノロジー

教育・子育て
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はじめに — 読む前に押さえておきたいこと

あなたはこんな悩みを抱えていないだろうか?

子どもにスマートフォンを持たせるべきか。タブレット学習は本当に学力向上につながるのか。そして、生成AIが急速に身近になった今、子どもにAIを使わせてよいのか。

こうした問いに、はっきりとした答えを持てている大人は多くないだろう。

便利そうだとは思う。一方で、どこか不安もある。自分で考えなくなるのではないか。楽を覚えてしまうのではないか。取り返しのつかない影響があるのではないか。

しかし、だからといって完全に遠ざけることが正解とも言い切れない。気がつけば、私たち大人自身は仕事や調べもの、文章作成など、日常のさまざまな場面でAIの恩恵を受けている。

「大人は使っているが、子どもにはまだ早い」その線引きは、本当に妥当なのだろうか。

子どもの学びにとって大切なものは何か。

この問いに向き合うことは、教育の話にとどまらず、これからの社会をどう捉えるかという問題にもつながっている。

本書が示すこと(著者の主張)

本書が扱っているのは、「AIを教育に導入すべきかどうか」という単純な是非論ではない。

著者が一貫して問いかけているのは、「学びとは何か」「人はどのように理解し、成長するのか」という、より根本的なテーマである。

知識を覚えることと、理解することは同じではない。正解を出すことと、考えることも同じではない。

従来の教育が抱えてきた課題を整理したうえで、AIという新しい技術が、その課題にどのように関わりうるのかを丁寧に検討していく。そこにあるのは、テクノロジー礼賛でも、危険視でもない。

AIは教師の代わりになる存在ではないし、子どもの思考を奪う存在でもない。使い方次第で、学びの質そのものを変えうる「環境」の一部として位置づけられている。

重要なのは、AIを使うかどうかではなく、どのような前提で学びを設計するのかという点にある。
本書は、その前提を問い直すための視点を提示している。

本書を読んで感じたこと(私見)

本書を読んで印象に残ったのは、AIの話をしながら、終始「人間の側」に焦点が置かれている点である。

AIができること、できないことを列挙するのではなく、人が学ぶときに何を面白いと感じ、どこでつまずき、どうすれば前に進めるのか。その構造を軸に話が進んでいく。

だからこそ、「子どもにAIを触らせるべきか」という問いも、単なるリスク管理の話では終わらない。むしろ、大人である私たち自身が、学びをどう捉えてきたのかを問い返されている感覚になる。

AIの是非を考える前に、学びの本質を見つめ直す。その順序を取り戻させてくれる点に、この本の大きな価値があると感じた。

子どもとAI、その問いはどこから生まれるのか

子どもにAIを触れさせるべきか

私たち大人の世代にとって、AIはすでに日常の一部になりつつある。仕事でも私生活でも、気づけば当たり前のように使っている存在だ。そうであれば、子どもたちにとってもAIが身近なものになるのは、ごく自然な流れだろう。少し意識すれば、いつでも手に取れる「相棒」のような存在になりうる。

一方で、発達段階にある子どもにとって、AIは本当にプラスに働くのだろうか。

調べ物や発想を広げるという点では、大きな助けになるはずだ。これまで時間や知識の壁で諦めていたことにも、簡単に手が届くようになる。しかしその反面、自分の頭で考える前に答えを委ねてしまう存在にもなりかねない、という不安も拭えない。

これからの時代、子どもたちにAIを使わせるべきなのか。それとも距離を置くべきなのか。今回は、そうした迷いの正体を整理しながら、いくつかの視点から考えていく。

AIは私たちの学び方をどう変えるのか BRAVE NEW WORDS】(サルマル・カーン 著/稲垣みどり 訳)

サルマル・カーン

米国の教育者であり起業家として知られ、世界中で学びのアクセスを広げる活動を続けている。非営利のオンライン学習プラットフォーム「カーンアカデミー(Khan Academy)」の創設者兼CEOであり、誰もが無料で質の高い教育を受けられることを目指している。カーンアカデミーは数学や科学をはじめ多様な科目の教育コンテンツを提供し、190以上の国で数千万人の学習者に利用されている。

教育への道は、いとこに数学を教えるために制作した動画をインターネットに投稿したことから始まった。その反響を受けて同氏はヘッジファンドの仕事を辞め、本格的に教育コンテンツの制作・配信に取り組むようになった。

また、カーン氏はマサチューセッツ工科大学(MIT)で理工系の学位を取得し、ハーバード・ビジネススクールでMBAを修了しており、教育とテクノロジーを融合した革新的アプローチで国際的な評価を受けている。

創造力は生成AIによって阻害される?

想像力とは、どのような力だろうか。

モノも情報もあふれている現代において、まったくのゼロから何かを生み出すことは、実はほとんどない。多くの場合、私たちが「新しい」と感じるものは、既存のアイデア同士の組み合わせによって生まれている

たとえば、スマートフォンは電話とインターネット、カメラや音楽プレイヤーといった既存の技術を一つにまとめたものだ。あるいは、ヒットしたサービスやコンテンツを振り返ってみても、過去の成功例や文化、技術の延長線上にあるものがほとんどである。

このように、多くの人に影響を与えてきた「創造的なもの」も、突き詰めれば何かと何かの掛け算でできている

では、生成AIを使って創造力を発揮するとは、どういう状態なのだろうか。著者の立場は明快で、「人間がやってきたことと本質的には変わらない」というものだ。

AIにインプットされているのは、人間がこれまでに生み出してきた膨大な知識や表現である。それらを組み合わせ、新しい形として提示する。もしそれを創造性と呼ぶのであれば、人間の思考プロセスと大きな違いはないむしろ、自分ひとりでは持ち得なかった知識や視点に触れられる分、アウトプットの幅が広がる可能性すらある

もちろん、「自分の力だけで生み出すこと」に価値を感じる人もいるだろう。AIを使って完成度の高い成果物を作るより、不完全でも自力で考え抜いたものの方が尊い、という感覚だ。ただ現実には、AIを活用して生まれた100点の成果と、自力だけで生まれた80点の成果が並んだとき、後者を無条件に評価する人は多くないはずだ。

重要なのは、既存のアイデアをどう組み合わせるかという点であり、それは人が行ってもAIの力を借りても本質は変わらない。そうであれば、AIの知識を活用すること自体を過度に警戒する必要はない、というのが著者の考えである。

逆説的だが、AIに任せさえすれば、誰も見たことのないアイデアが自動的に生まれるわけでもない。問いを立て、選び、面白がる。その部分には、どうしても人の意思や感覚が入り込む。

だからこそ、「人間かAIか」という二項対立ではなく、「人間がAIをどう使うか」という視点が重要になる。創造力が奪われるかどうかは、AIそのものではなく、使い手の姿勢にかかっている。

AI時代の教師の必要性

AIは、これまで人類が蓄積してきた知識を大量に取り込み、瞬時に引き出すことができる。その存在を前にすると、「教師という仕事は、いずれ必要なくなるのではないか」と考えてしまうのも無理はない。

だが、著者の答えは明確だ。教師の役割は小さくなるどころか、むしろ重要性を増していく

現実の教師は多忙である。授業の準備、部活動、行事対応に追われ、教材研究や一人ひとりの理解度に向き合う時間は限られている。その結果、教育はどうしても「教える側」と「教わる側」という一方向の構図になりやすい。

たとえば、国語の記述問題の採点を考えてみる。選択式であれば判断は簡単だが、文章で書かれた答えの場合、生徒がそこに至った思考の過程まで丁寧に読み取る余裕はない。どうしても「模範解答に近いかどうか」で判断せざるを得なくなる。

AIが力を発揮するのは、こうした部分だ。採点や下書きの確認、思考の整理といった作業をAIに任せることで、教師は「なぜこの考えに至ったのか」「どこでつまずいているのか」に目を向けられるようになる

一見すると、AIに解答を考えさせることはズルのようにも見える。しかし、生徒がAIと対話しながら思考を深め、その過程を教師が把握できるのであれば、それは単なる答え合わせではない。思考を可視化する手段になる。

重要なのは、AIが教室に「対話」を持ち込む点である。教師と生徒が一対一で向き合うのが難しい環境でも、AIが壁打ちの相手になることで、生徒同士や教師との議論が生まれやすくなる。

著者は、AI時代の教師の役割として、次の三点を挙げている。

第一に、期待値を上げること
AIを使えば一定水準の答えは誰でも出せる。その前提に立ち、より深い思考や独自性を求める。

第二に、AIとともに課題に取り組ませること
提出前に自分の答えの弱点を洗い出し、考え直す。その過程そのものが学びになる。

第三に、授業を反転させること
知識のインプットは個人で行い、教室では対話や試行錯誤に時間を使う。学びの中心を「聞く」から「考える」へ移す。

AIは教師の代わりにはならない。だが、教師が本来向き合うべき「学びの設計」に集中するための道具にはなり得る。

これからの時代の教育を考えるために

子どもにAIを触れさせるべきか。

ここまで読み進めてくると、この問いに対して「全面的に使うべきか」「一切使うべきではないか」という二択で答えるものではないことが見えてくる。人の力か、AIか。そうした白黒の議論そのものが、少し的外れなのかもしれない。

まず押さえておくべきなのは、人間は結果そのものよりも、そこに至る過程を楽しむ生き物だという点である。想像し、試し、学び、何かを形にしていく。そのプロセス自体が、学びの本質になっている。

AIは、その過程を省略する道具にもなり得るし、逆に広げる道具にもなり得る。著者が強調しているのは、AIによって成果を早く出すことではない。子どもたちが本来味わうべき学びの過程を、より豊かにするためにAIをどう位置づけるか、という視点である。

もう一つ忘れてはならないのは、学びの中心にあるのはテクノロジーではなく、人との関わりだということだ。教室での対話、試行錯誤、他者の視点に触れる経験。これらがなければ、どれほど高度な技術があっても学びは深まらない。

AIが重要か、重要でないかという議論に引きずられると、この前提を見失ってしまう。AIは目的ではなく、あくまで手段である。その特性やリスクを理解したうえで使うかどうかを判断する。それ以上でも、それ以下でもない。

本書が示しているのは、教育におけるAI活用の是非ではなく、私たちが「学ぶとは何か」をどう捉え直すかという問いである。それは教育に限らず、仕事や日常の中でAIとどう付き合っていくのかを考える際にも、そのまま当てはまる視点だろう。

AIとともに学ぶということ

子どもにAIを触れさせるべきか、という問いから始まった本書だが、読み進めるうちに、その問い自体が少しずつ形を変えていく。

問題は、AIを使うか使わないかではない。どのような前提で学びを設計するのか、誰が学びの主体なのか、そして人は学ぶ過程のどこに価値を感じるのか。本書が繰り返し向けているのは、そうした根本的な問いである。

AIは、知識を与えてくれる存在ではあるが、学びそのものを代替する存在ではない。創造力も、対話も、試行錯誤も、そこに意味を見出すのは常に人間の側だ。AIはそれを奪うものではなく、むしろ引き出すための道具として位置づけられている。

だからこそ重要になるのが、「人間 vs AI」という対立構図から距離を取ることだ。AIを敵視するのでも、万能視するのでもない。「人間 with AI」という視点に立ち、学びの質をどう高めていくかを考える。その姿勢自体が、これからの教育において欠かせないリテラシーなのだろう。

この考え方は、教育に限った話ではない。仕事でも、創作でも、日常の意思決定でも、AIはすでに身近な存在になっている。だからこそ本書は、「子どもにAIを触らせるべきか」という問いを通して、私たち大人自身が、AIとどう付き合っていくのかを問い返しているようにも読める。

AIの使い方を学ぶ前に、学びとは何かを問い直す。その順序を取り戻させてくれる点にこそ、本書の価値がある。

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