はじめに — 読む前に押さえておきたいこと
あなたはこんな悩みを抱えていないだろうか?
・どうしても苦手なことがあり、うまく働けないと感じている
・「努力が足りないのでは」と自分を責めてしまう
・働いていない人を見ると、「怠けているだけでは?」と思ってしまう
「働くこと」が当たり前とされる社会において、思うように働けない自分や他者に対し、モヤモヤした気持ちを抱いたことはないだろうか。その気持ちの奥には、「できなさ」や「生きづらさ」への想像の難しさが潜んでいるかもしれない。
このブログで紹介する本の特徴
・脳に不自由を抱えることで生まれる「働けなさ」と、その背景を当事者視点で描いている
・外からは見えにくい困難が、どのように誤解や孤立を生むのかを丁寧に言語化している
・「働けないのは自己責任か?」という問いに、制度や社会の構造からも迫っている一冊
なぜ今、この考え方が求められているのか?
個人の努力や自己責任が強調される時代において、「できないこと」や「働けない状態」は、見過ごされがちである。表面に見えにくい困難を抱えた人が、「怠けている」と誤解されたり、制度の網から漏れてしまったりする現実がある。
「見えない困難がある」という前提を持てるかどうか。それは、これからの社会に必要な“想像力”であると感じる。
自分自身がそうした困難に直面する可能性を含めて、今、この視点を持っておく意味は大きい。
私の気づき
「できないこと」や「働けない状態」は、努力不足ではなく、本人にも他人にも認識しづらい「不自由さ」から生まれている場合がある。にもかかわらず、それを言葉にして共有することが難しいからこそ、誤解や孤立が生まれるのだと気づかされた。
本書を読んで、誰かの働けなさや生きづらさを、自分の視点だけで判断しないことの大切さをあらためて実感した。
見えにくい「できなさ」が、生きづらさを生む
あなたには、どうしても苦手なことがあるだろうか。
たとえば──
大勢の人の前で話すこと。
マルチタスクで仕事を進めること。
早起きすること。
誰にでも、こうした「苦手」の一つや二つはあるはずだ。とはいえ、ほとんどの人はそれを何とかカバーし、日常生活や仕事に支障が出ないように工夫して生きている。
では、もしその「苦手」や「できないこと」が、どうしても隠しきれず、仕事に深刻な影響を及ぼすものだったらどうなるだろうか。
当然、普通に働くことが難しくなり、収入を得る手段も限られてくる。結果として、生活が困窮し、貧困に陥ってしまうことになる。
今回紹介するのは、そんな「働けない」という現実と、貧困との関係を真正面から見つめた一冊である。
【貧困と脳 「働かない」のではなく「働けない」】(鈴木大介 著)
鈴木大介
1973年、東京都生まれのノンフィクションライター。少年非行、生活困窮、貧困、福祉、医療、災害復興など、社会的なテーマを中心に、現場に根ざした取材を重ね、リアルな言葉で数々の著作を発表している。
自身が脳梗塞で倒れた経験を機に、障害者支援やリハビリ、医療の分野にも取材範囲を広げ、当事者としての視点を活かした文体が多くの読者から支持を集めている。
キャリアのスタートは雑誌編集者として。その後、深く取材対象に入り込む「当事者性」の強いスタイルでルポライターとして活動し、近年は講演やメディア出演など多方面で発信を続けている。
脳の不自由さと、誤解される「怠け」
足が自由に動かせない人にとって、建設作業員や農業・漁業従事者、消防士などの仕事に就くのは難しい。同様に、視覚に障害を持つ人にとっては、グラフィックデザイナーや外科医、運転手といった職業には高いハードルがある。
これらの不自由さは、他人の目からも明らかである。たとえば大きな怪我をしていなくても、車椅子に乗っていれば、足が不自由なのだと自然に理解される。
では、脳に問題を抱えていた場合はどうか。
たとえば、「起きている時間のうち6時間だけ正常に機能し、それを過ぎると小学生レベルの思考力しか保てない脳」を想像してほしい。平日であれば、昼過ぎから文章を正しく読めなくなったり、相手の気持ちを想像できなくなったり、論理的に物事を考えることが困難になってくる。
こうした脳の状態は、外見からはわかりづらい。他人の目には問題があるように見えず、普通に見えるがゆえに、「違い」が理解されにくい。
これこそが、「働けない」の正体である。
「なんでそんなこともできないのか」と責められる人たちは、実はこうした脳の機能的な制限を抱えている。しかし、可視化が難しいために、「働けない」のではなく「働かない」と誤解され、烙印を押されてしまう。
この「見えなさ」は、本人にとっても深刻な問題である。たとえば、他の人が当たり前にできている「PCの文字を読む」「現金で買い物をする」といった行為が、自分にはなぜかうまくできない。その理由が自分でもわからず、「なぜ自分だけが」と思い悩んでしまう。脳の問題であると認識できないまま、自責の念にかられることも少なくない。
しかも、こうした悩みは他人に理解されにくく、相談することさえためらわれる。風当たりの強さを感じながら、ますます孤立していく。
目に見えない「不自由さ」があるという事実に、私たちはもっと敏感になる必要がある。
「自己責任論」の落とし穴を考える
一昔前と比べ、現代は「会社に依存せず、個の力で生き抜く時代」と言われるようになった。そのような社会においては、「自己責任論」がこれまで以上に力を持つようになっている。
この論理は、脳に不自由を抱えた人に対しても容赦なく適用される。他人には見えにくいその不自由さを理解されることは少なく、ハンディキャップを抱えながらも「普通の人」として振る舞い、成果を出すことが当然のように求められる。
その結果、仕事のパフォーマンスが安定しなかったり、業務を継続することが難しくなったりすれば、「怠けている」「努力が足りない」とみなされてしまう。そして、働けなくなり、生活費を得る手段が断たれ、最終的に貧困状態に追い込まれる。
しかし、これは本当に「自己責任」なのだろうか。
目に見えない困難を抱える人に対して、私たちは十分に想像力を働かせていると言えるだろうか。「見えない不自由」を前提にしたまなざしを持たずに、「結果だけ」を見て評価してはいないだろうか。
本書の著者もまた、かつてはこうした人々を『働かない人』だと思っていたという。だが、自身が脳梗塞によって認知機能の低下を経験したことで、その認識は大きく変わった。
「自己責任」という言葉で片づける前に、人には見えない事情があるかもしれない──その視点を持つことが、今の社会には強く求められている。
不可視の困難を前提とする社会のかたち
脳の不自由さは可視化しづらい。そのため、「働けない人」を完全に救うことは現実的に難しい。だが、それを理由に、私たちがその努力を放棄してよい理由にはならない。
ここでは、著者が考える「働けない人」が少しでも生きやすい社会を実現するためのヒントを、三つの視点から整理する。
当事者本人:2つの自己理解を持つ/同じ当事者から学ぶ
著者が提唱するのは、「2つの自己理解を持つこと」である。具体的には以下の2点だ。
- 脳の不自由さを「正体不明のナニカ」として恐れるのではなく、「ある程度対策可能なもの」と捉える
- 「自分は壊れてしまったのではないか」と不安に駆られるのではなく、「ああ、またか」と客観視し、自分を責めない
前者においては、「自分の症状は普遍的なものであり、工夫すれば対処できる可能性がある」という認識が出発点となる。著者は実際に、文章を読めなくなった経験を持つが、その際、読んでいる行以外を定規で隠すことで読解力が戻ったという。こうした具体的な対処法を自分なりに発見していくことが重要なのだ。
後者は、主に精神的な安定を保つための自己理解である。不安が過剰になると、それ自体が新たな負荷となり、脳の機能低下に拍車をかけてしまう。反対に、「今はそういう時期だ」と理解し、冷静に受け止められれば、落ち込みを防ぎ、前向きな行動に移すことができる。
いずれにせよ、「できないこと」を努力不足と決めつけるのではなく、それが脳の特性によるものかもしれないという視点を持つことが、自己理解の第一歩である。
周囲の人々:想像力を働かせる
周囲の人の理解もまた、欠かせない。
たとえば、100メートルを全力ダッシュすることを想像してみてほしい。息は上がり、足がもつれ、相当に疲れる。多くの人にとって、それは「無理をしないとできないこと」であるはずだ。
脳に不自由を抱える人にとって、メールを1通送ることや、レジでお金を支払うといった行為が、この全力ダッシュと同じくらいの負荷を伴うことがある。
身体的負担は可視化しやすい。しかし、脳の負担は見えにくい。そのため、多くの人は「なぜそんな簡単なことができないのか」と理解できずに戸惑い、時に責めてしまう。
そこで必要なのが、想像力である。
「もし自分が、脳に制限があったら?」という仮定のもとで日常を思い描いてみることで、当事者の感じるしんどさを想像できるようになる。そうした視点を持つことが、相手にとっての「生きやすさ」を大きく変える一歩となる。
社会:メディアや制度のあり方を見直す
最後に、社会全体の仕組みについても触れておきたい。
「生活保護」という言葉に、どこかネガティブなイメージを抱く人は多い。それは、受給を希望しても叶わなかった人たちの声ばかりが可視化されるからである。
一方で、実際に受給できて支えられた人々の声が公になることは少ない。発信する側の立場や、社会的な「後ろめたさ」を生む雰囲気が影響しているのだろう。その結果、制度の存在意義や有効性が伝わらず、必要な人に行き届かなくなっている。
特に、脳の不自由さを抱える人にとって、この情報の非対称性は致命的である。「助かる手段がある」と知らなければ、選択肢は生まれず、最悪の場合、命を絶つという選択にまで至ってしまう。
メディアは、こうした「支えられた人の声」をもっと届けていく必要がある。そして同時に、生活保護の制度自体についても再考が必要だ。
現行制度では、ある程度の蓄えがあると受給ができない。つまり、脳に障害が出て働けなくなった場合でも、わずかな預金があるうちは制度を頼れないのである。「貧しさ」に完全に追い込まれてからでないと、支援の扉が開かない仕組みは、本当に必要な支え方と言えるのだろうか。
脳の不自由さは、誰にでも起こり得る。誰もが当事者になりうるからこそ、制度もまた、「いざというときに支えてくれるもの」でなければならない。
見えない困難と共に生きるという選択
「怠けている」のではなく「働けない」。この一文が、読む前と読んだ後で、これほどまでに意味を変えるとは思わなかった。
本書を通じて繰り返し語られるのは、「見えない困難が存在する」という事実である。外傷もなければ言葉も普通に交わせる。そんな人が「働けない」と言ったとき、私たちはつい、「なぜ?」と疑ってしまう。しかしその疑いは、本人にとっては想像以上に残酷な問いとなる。
脳に何らかの不自由さを抱えている人は、「普通のふりをして、普通に暮らす」ことを求められる。にもかかわらず、普通でいられない。仕事のパフォーマンスが落ちたり、コミュニケーションに支障が出たりすると、「努力が足りない」と責められてしまう。
しかし、それは本当に努力で解決できるものなのだろうか。
著者は自身の経験から、「そうではない」と強く訴える。できなさには理由がある。しかもその理由は、外からはほとんど見えない。だからこそ、「自己責任だ」と片づけてしまう社会のまなざしは、あまりにも一面的だ。
本書を通じて、私は「できないこと」を特性として理解する大切さを学んだ。そして同時に、その特性を抱えたままでも安心して生きられる社会には、まだ距離があるという現実にも向き合わされた。
見えにくい困難を前提とした制度設計や意識改革は、一朝一夕には実現できないだろう。しかし、社会をかえる一歩目は、いつだって個人の「見方の変化」から始まるのだと思う。
自分には関係ない、と思っていた世界が、実はすぐ隣にあるかもしれない。そんな可能性を想像できるかどうかが、私たちに問われているのではないだろうか。
この本に触れることで、これまで見えていなかった「誰かのしんどさ」が少しだけ輪郭を持って見えてくる。そんな経験を、多くの人に味わってほしい。
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