「ここだけはおさえて」ポイント
この本が届く人・届いてほしい人
「効率や合理性を重視すれば、社会はうまく渡っていける」と信じ、実際にある程度の成果を手にしてきた。そんな実感を持っている人ほど、ふとした瞬間に、どこか物足りなさや孤独を抱えていないだろうか。その空白は、まさに効率や合理性によって削ぎ落とされた“冗長なもの”の中に、存在していた何かかもしれない。
かつての友達との関係のように、見返りや利害を越えて「ただ一緒にいた」ことの心地よさを知っているあなたに、ぜひ手に取ってほしい1冊。
この本が届けたい問い/メッセージ
「それって、割に合うの?」という問いがあたりまえのように投げかけられる社会。そこで動くのは交換の論理であり、そこでは他者が「自分に何を返してくれるか」で測られてしまう。しかし、そうした論理からは、本当の意味での信頼も、つながりも生まれにくい。
だからこそ、見返りを前提としない「贈与」という行為の可能性は大きい。贈与とは、時間を超えてはじめて気づかれるものであり、相手を深く想像することからはじまる。そして、その想像は、効率の外側にある「冗長な行い」に支えられている。
いま、人と人との距離が見えにくくなる時代だからこそ、贈与という形を通じて、誰かともう一度出会い直すことができる。
読み終えた今、胸に残ったこと
誰とでもつながれる時代であるはずなのに、心からのつながりはますます感じにくくなっている。そんな時代において、「相手の言語ゲームを想像すること」―つまり、相手がどんな世界で、どんな価値を抱えて生きているのかを丁寧に読み取ろうとすることこそが、深いつながりの出発点になる。
それは、無駄に見えるような遠回りの行為に思えるが、だからこそ人の心に届く。「ひとりで生きられるけど、誰かとつながっていたい」。そんな時代において、与えることの意味を、静かに、そして確かに思い出させてくれる1冊。
なぜ親は、孫の顔を見たがるのか
孫の顔が見たい。
親世代が口にするこの願いは、どこから湧いてくるのだろうか。親になったことのない自分には、正直ピンとこない。似たような感情を抱いた記憶もない。おそらく、「親」未経験者であれば、きっと同じように感じるはずである。
だが不思議なことに、「孫の顔が見たい」は、親たちのあいだであまりにも自然に交わされる言葉だ。価値観の多様性が叫ばれる今、それを当然のように求められることに、違和感を覚えたことがある人もいるのではないか。
とはいえ、この願いの背後には、「親の愛」とも言える深い感情があるらしい。
今回紹介するのは、この「親の愛」の正体を明らかにしてくれる一冊である。
【世界は贈与でできている――資本主義の「すきま」を埋める倫理学】(近内悠太・著)
近内悠太
1985年神奈川県生まれの教育者・哲学研究者。慶應義塾大学理工学部数理科学科を卒業後、日本大学大学院文学研究科修士課程を修了。専門はウィトゲンシュタイン哲学。現在は、リベラルアーツを主軸とした統合型学習塾「知窓学舎」の講師を務める。教育現場から教養と哲学を立ち上げ、学問分野を越境する「知のマッシュアップ」を実践している。著書に『利他・ケア・傷の倫理学』(晶文社、2024年)がある。
贈与の論理で読み解く親の愛
スーパーマーケットの試食品を想像してほしい。誰しも一度は試食したことがあり、「食べさせてもらったから、買わないと悪いかな」と感じた経験があるだろう。
強弱は人によってそれぞれだが、何かを与えられたとき、「お返しをしなければ」という感情が働くのは当然である。試食品は、この心理的効果を利用している。
しかし、一般的に親の愛というものは、子どもからの見返りを期待しないものだ。スーパーが売上を増やすために試食品コーナーを設けるのとは、訳が違う。
では、この「親の愛」のモチベーションの源泉はどこにあるのだろう。
こんな疑問が湧いてくるが、答えは簡単だ。親の親、つまり、祖父母からの愛である。
見返りを求めない祖父母からの愛を受け取ることによって、親は「育ててもらう理由や根拠もないのに、愛されてしまった」と悟る。この罪悪感によって抱いた「お返しをしなければ」という感情を、自分の子どもを愛することで解消する。これが、親からの愛の正体だ。
つまり、親の愛は「一方的に与えられたものを、さらに次の世代に手渡していく」という贈与の連鎖の中にある。
「孫の顔が見たい」は愛の“答え合わせ”
もう一点、試食品との共通点について触れておきたい。それは「自分の愛が正しかったのか?」と確かめたくなることである。
スーパーの場合、対象商品の売上を可視化することで、試食販売の正しさを確認する。同じように親も、自分の愛が正しかったのかどうかを証明したくなる。ただし、こちらはデータでは可視化できない。しかし、可視化そのものは可能である。
孫の存在。
自分の子どもが、愛を与える立場になったこと。これが確認できれば、かつての愛は正しかったと証明される。「孫の顔が見たい」とは、過去に自分が与えた愛の正しさを確かめる行為なのだ。
共に生きるということは、言語ゲームを一緒につくること
「3 + 5 = 8」はなぜ正しいのか?
「3 + 5 = 8」を証明してください。
そう問われたとき、あなたはどのように答えるだろうか。
リンゴ3個とリンゴ5個を足しても、「なぜリンゴが自然発生しないと言えるの?」と問われる。天秤で量っても、「はかりが壊れていないことをどう証明できるの?」と返される。水を足して8Lになったと主張しても、「水に足し算が適用できるの?」と弾かれてしまう。
一見、屁理屈のようにも思えるが、実は「3 + 5 = 8」の正しさを絶対的に証明するのは難しい。
だが、逆の発想もできる。
もし「3 + 5 = 8」でないとしたら、世界は成り立たなくなる。
300円のミカンと500円の牛肉を買っても800円にはならないし、5分バスに乗り、3分歩いても、8分後発の電車には間に合わない。3kgのリュックと5kgのスーツケースも、合計8kgとして扱われなくなる。
私たちは「3 + 5 = 8」というルールを共有しているからこそ、世界を安定的に扱い、他者と共に生きていける。このようなルールの集合が、ウィトゲンシュタインのいう「言語ゲーム」だ。
ルールの違いに気づくことは、贈り物に気づくこと
人は、同じ言語ゲームのルールを共有することで、他者と理解し合うことができる。そしてこの性質を理解しておくと、思いがけないかたちで与えられていた贈り物に気づけるようになる。
ある男性の母親は認知症を患っており、夕方16時になると外出しようとする。いわゆる徘徊である。
彼はこの行動の意味がわからなかった。だが介護職員に相談した際、こう尋ねられたという。
16時と聞いて、思い浮かぶことはないですか。
それは、彼が幼いころ、幼稚園から帰ってきた時刻だった。母親は、彼を迎えに行くために外出していたのだ。
つまり母親は「16時になると息子が帰ってくる」というルールの中で生きており、その行動によって、彼に“贈与”していたのである。
私たちは、時に相手のルールに馴染めず「なぜそんな行動をするのか」と戸惑う。しかし、相手の世界にあるルールを想像し、そこからのメッセージに気づくこと。それは、他者の贈り物を受け取ることにほかならない。
共に生きるとは、同じ言語ゲームのルールを共有し、場合によっては一緒に新しいルールをつくり上げていくことなのだ。
冗長さに人の心は動かされる
親の愛や、息子を迎えに行く母親の行動からも分かるように、贈与は時間を超える。
その贈り物は、当人が「これは贈与ですよ」と主張するわけではない。むしろ、受け取る側が後になって初めて「あれは贈与だったのだ」と気づくものだ。
こうした贈与は、効率や合理性とはほど遠い場所にある。自分の利益を求めて行われるのではなく、見返りも期待しない。最たる例が「親の愛」だろう。
たとえば、大切な人に誕生日プレゼントを贈るとき、もし本当に本人の満足だけを考えるなら、現金を渡すのが一番効率的かもしれない。
しかし多くの人は、そうしない。何日も前から、相手の好みや日常を思い出しながら「何が喜ばれるだろう」と悩み、選び、渡す。その時間こそが、思いの証であり、こころを動かす要素だ。
贈与には、効率を超えた“無駄”や“手間”が含まれている。その“冗長さ”が、つながりを実感させる。
私たちが「成功してもなぜか虚しい」と感じるとき、その背後には効率性や合理性の徹底があることが多い。必要最低限で成立したものには、誰かのこころが宿る余地がないのだ。
だからこそ、あえて少し回り道をする。少し遠回りで、少し不器用で、少し面倒なことをする。
その“冗長な余白”の中にこそ、人と人とのつながりは芽生えるのである。
まとめ – 「贈与」を通じて世界と出会い直す
ああ、私はこんなにも大切なものを受け取っていたのだ。
贈与は見返りを求めない行為であるががゆえに、その価値に気づくには受け手の豊かな想像力が必要である。即時的ににそれが把握されることはほとんどないが、「あれほどの贈与があったのだ」と後から気づくものだ。
その瞬間、受け手は自らの内面を見つめ直し、世界のあり方を改めて捉え直す。自身の中に芽生えた微かな罪悪感ー「もっと恩返しをしなければ」と感じる心ーを伴いながら、次は自分自身が与える立場となる。こうして、贈与の連鎖は続いていく。
何気ない日常の隅々に散らばる贈与の瞬間を意識することで、世の中は大きく変わらなくても、私たち自身の心が豊かになり、他者とのつながりを深めることができる。いわば、「成功」と称される評価とは異なる、温かい幸福感を実感できる道である。
ぜひ本書を通じて、あなた自身がこの贈与の連鎖に気づき、世界と新たな出会いを果たしてみてはいかがだろう。
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