22時半を過ぎ、確か22:48ごろ。寝る準備は整ったものの、土曜日の夜を無駄に過ごすのが惜しく、まだ何か足りない気がして夜の散歩に出ることにした。いつものように、読みたい自己啓発書をaudibleで探していると、今日は(厳密には昨日)ブログの更新やネタ仕込み(読書)を済ませ、充実した一日だった。だからこそ、「いつもと違うものを」と思い、一冊を選んで聴きながら歩いた。それが大当たり。帰宅後、すぐに電子書籍を購入し、内容を思い出しながらまとめてブログに書き記す。
今回は内容を勧めるというよりも、「聴いて、読んでみること」を推したい気持ちが強い。エッセイなので、自己啓発書とは違った楽しみ方ができるのは当然だが、久しぶりの感動に驚いた。深夜2:00前にもかかわらず、熱気がこもったまま筆を進めているので、その点はご理解を。
【いろいろ】(上白石萌音・著)
読み物を聴いて、それをアウトプットするということ
小学校の国語の授業を思い出した。「教科書の文章をCDで聴き、それについてアウトプットする」という経験は久しぶりだ。私は、聴いた内容を思い出すために電子書籍も読み返し、「読むだけでは気づけなかった感情がある」と感じた。
- いつもとは違うところに意識が向く
聴いていると、「ここで読む速度を変えるのか」「この表現に『思う』を使わないのか」など、普段気にしない点に意識が向かう。たかが耳で聴くだけで、思わず新しい視点を得られるのだ。特に印象的だったのは、次の表現。
– 髪を切った。ばっさり十センチ、軽い〜。手櫛で髪をとくと今朝よりも早く毛先に辿り着く。-
この一文を聴いたとき、エッセイと自己啓発書の違いを強く感じた。「わかりやすい」とは、頭で理解すること以上に、感覚が同じで通じ合う表現だと思った。これが「聴いて、読んで欲しい」と感じた理由の1つだ。
- 「ミクロ、かつ、他人なのに主観的な目線」に没頭できる
– 蝋燭に火を灯す瞬間が好き。私はマッチ派だ。手前から奥に向かってマッチを擦り、それを横に寝かせて蝋燭に近づける。この一連の所作にはなんとも言えない情緒がある。火がマッチ棒から芯に燃え移るのを待つ数秒間、右手が「オーケー」の形をとりがちなのもなんだかいい。-
– 背筋を伸ばすこと。呼吸を深く保つこと。なるべくドタバタと音を立てずに、少し先の地面を見据えて前に進むこと。こうやって並べてみると、正しい走り方は健やかな生き方に似ている。 –
ただ蝋燭に火を灯すこと、走ることと、その心情を記しているだけである。ただ「蝋燭に火を灯す」「走る」をここまでミクロな目線でアウトプットするのがエッセイだな、と忘れていた感覚を思い出す。自己啓発書の読み方のように、必要な情報を探して拾いに行く読み方をしてしまうと、形容詞・副詞・感嘆表現や作者の感情は読み飛ばす(というより、記載されていないことも多い)。冬のひんやりした空気を感じつつ聴いていたことも相まり、情報ではなく感覚として、ミクロな目線を研ぎ澄ませて受け取ることができた。
- 聴く→読むの順番だから、答え合わせができる
聴いたときには分からなかったことも、読むことで理解できる瞬間があった。
– 「ねえモネってさ、子役か何かやってる?」-
これは学生時代、著者が芸能活動をしていることをオープンにしていなかった時に、クラスメートに質問された一言である。当然、聴くだけでは”モネ”が”萌音”でないことは分からない。文字で読んで初めて理解できる。
このように記載してしまえば当たり前の事実なのだが、聴く→ 読むを通して、(カタカナであることが)わからない → わかるといった変化を経験していることにより、最初から読んだ場合と比較し、その友人との間柄を想像しようとする気持ちが湧くのではないかと感じてしまう。少なくとも一個人としてはそうである。読んだだけだと軽く「仲良さそう」と思う程度で止めてしまう、否、そんなこと気にもしない可能性もある。この気づきもやはり”エッセイってそういう楽しみ方するものだよな”に通づるのである。
まとめ – 違う感覚に触れる機会を与えてくれるのがエッセイ –
「本は読むけど自己啓発書が中心」という人にとって、この本は新しい感覚に触れる良い機会だと思う。ぜひ「聴く」→「読む」の順で体験してみてほしい。読書習慣がない方にも、やはり違った感覚を得られる一冊になるだろう。そして、改めて思うが、著者の音読には圧倒的な才能を感じる。恐ろしいほどの力がある。
ちなみに、音読も著者本人である。才能とは恐ろしい。
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