はじめに — 読む前に押さえておきたいこと
あなたはこんな悩みを抱えていないだろうか?
子どもの頃に比べて、本が読めなくなったと感じることはないだろうか。
時間がないわけではない。休日はある。移動時間もある。それでも、いざ本を開こうとすると、なぜか指が止まる。数ページで集中が切れ、別のアプリに手が伸びる。
読まなければならないとは思っていない。けれど、どこかで「このままでよいのか」という感覚が残る。
情報は十分に摂取している。ニュースも追っているし、流行も知っている。それでも、何かが積み上がっている実感が乏しい。断片は多いが、芯のある理解にたどり着いていないような感覚がある。
かつては自然にできていたはずの読書が、なぜか遠い行為になっている。
その違和感こそ、本書の出発点である。
本書が示すこと(著者の主張)
本書が扱うのは、「本を読もう」という精神論ではない。
読書を取り巻く環境がどう変化したのか。なぜ長い文章が選ばれにくくなったのか。そしてその背景に、どのような価値観の転換があるのか。
鍵となるのは「コスパ」という感覚である。
限られた時間の中で、より効率よく情報を得たいという志向。それ自体は合理的である。しかし、その志向が強まることで、テキストメディアの位置づけは変わった。
情報を得るための読書は、読まずに済む環境が整った。体験としての読書は、短い刺激に慣れた環境の中で集中を保ちにくくなった。
読めなくなったのは、意志が弱いからではない。環境が変わったからである。
さらに本書は、読書を「知識の取得手段」としてだけでなく、効率化された社会の外側に立つ行為として捉え直す。
長い文章を読むとは、すぐに報われない時間を引き受けることであり、他者の思考の軌跡をたどることである。それは成果を急ぐ環境とは相性がよくない。だからこそ、選ばれにくい。
読めない現象は、個人の問題ではなく、時代の構造の問題である。本書はその構造を言語化する。
本書を読んで感じたこと(私見)
印象的だったのは、「読めない自分」を責める必要はない、という静かな前提である。
努力不足でも、知的好奇心の衰えでもない。読書を取り巻く前提が変わっただけである。その整理がなされるだけで、読めないという事実が、少し客観化される。
同時に、長い文章を読むことの意味も再定義される。それは義務ではない。教養の証明でもない。効率化された流れから一歩外に出るための手段である。
読書は必須ではない。だが、効率の内側に居続けることにわずかな息苦しさを覚えているなら、その外側に出る選択肢にはなりうる。
本書は、「なぜ読めないのか」という問いを通じて、「それでも読むとはどういうことか」という問いへと視線を移す。
その転換こそが、この一冊の核心である。
「忙しいから読めない」は、本当か
子どもの頃に比べて、本が読めなくなったと感じている人は少なくないはずである。
かつて読書は、ゲームやスポーツほど派手ではないにせよ、確かな存在感をもつ娯楽のひとつであった。物語の世界に没頭する時間や、新しい知識を吸収する時間は、日常の中に自然と組み込まれていたように思う。
しかし、いまの私たちはどうだろうか。仕事に追われているのはもちろんだが、それ以上に、娯楽や情報に“追われている”。動画配信サービス、SNS、ニュースアプリ、ポッドキャスト。可処分時間を奪い合うコンテンツは無数に存在し、私たちはそれらを消費し続けている。
読書の時間が減ったのは、単純に忙しいからだ。そう結論づけることもできるだろう。
だが、本当にそれだけなのだろうか。
もし問題が単なる時間不足であるならば、時間さえ確保できれば再び本は読めるはずである。だが実際には、時間があってもページを開く気になれない、数ページで集中力が途切れてしまう、といった感覚を抱える人も多いのではないか。
つまり、変わったのは“時間の量”ではなく、“読み方そのもの”なのではないか。
情報は要約で手に入る。知識はAIに尋ねれば即座に返ってくる。物語も、展開の速いコンテンツに慣れた私たちにとって、ゆっくりと進む長編は負荷が高い。
読書ができなくなったのは、忙しさの問題というよりも、私たちの消費行動や思考様式が変わったからではないか。
そうした問いを出発点に、現代のテキストメディアの現在地を読み解いていくのが、次に紹介する一冊である。
【本を読めなくなった人たち-コスパとテキストメディアをめぐる現在形】(稲田 豊史 著)
稲田 豊史
1974年生まれ。編集者・ライター。映画配給会社勤務、出版社での編集職を経て独立。ポップカルチャー、メディア論、世代論を横断しながら、現代社会の価値観や消費行動を批評的に読み解く論考を発表している。
代表的著作の一つである 映画を早送りで見る人たち では、若年層を中心に広がる倍速視聴・スキップ再生といった映像消費の変化に着目し、その背景にある時間効率志向や“コスパ”意識、ネタバレ前提のコミュニケーション文化などを分析した。単なる視聴スタイルの変化としてではなく、情報過多社会における不安や承認欲求、同調圧力といった構造的問題として捉え直した点が大きな反響を呼んだ。
その他、ポップカルチャーや家族観、ジェンダー観の変遷を扱った著作も多数。身近なコンテンツを切り口にしながら、そこに潜む社会構造や時代精神をあぶり出す批評姿勢に特徴がある。
二種類の読書が、どちらも揺らいでいる
読書には、大きく分けて二つの側面がある。
ひとつは、情報を得るための読書である。もうひとつは、体験としての読書である。
前者は、知識や要点を把握することを目的とする読み方だ。専門書やビジネス書が思い浮かびやすい。ここでは「何が書かれているか」が中心になる。極端に言えば、内容の整理や解説で代替できる部分もある。
いま、その環境は大きく変わっている。
検索すれば要点は見つかる。解説も複数提示される。生成AIを使えば、数百ページの内容が短時間で整理される。情報そのものにアクセスするだけなら、本を通読する必要性は以前より低くなっている。
読まずに把握できてしまう環境が整っているのである。
では、体験としての読書はどうか。
物語に入り込み、時間をかけて世界観を味わう。読む過程そのものが価値になる読み方である。小説や漫画が典型だろう。
だがこちらも、無傷ではいられない。
短時間で完結する刺激に日常的に触れていると、展開が緩やかな物語に身を委ね続けることが難しくなる。場面が大きく動かない時間に、落ち着かなさを覚えることもある。物語の進行よりも、変化の頻度に意識が向いてしまう。
情報を得る読書は、読まずに済む状況が広がった。体験する読書は、集中を保ちにくい環境に置かれている。
どちらか一方ではない。両方が同時に揺れている。
読めなくなったと感じるのは、意志の衰えというよりも、読むことを取り巻く前提が変わったからかもしれない。
環境が変われば、行動も変わる。
読書だけが例外であるとは言い切れない。
長い文章は、効率の外側にある
普段読書をしていなくても、生活は回る。長い文章を読むことは、現代社会における必須技能ではない。
それでもなお、あえて長い文章を読む意味はどこにあるのか。
その答えは、効率の外側に身を置くためである。
現代の情報環境は、徹底して効率化されている。
短い。わかりやすい。すぐに報われる。
理解に時間をかけるよりも、「理解した気になれる速度」が優先される。
レコメンド機能は、過去の履歴をもとに嗜好を推測し、好みに近い情報を差し出す。興味のある領域だけに囲まれた空間は心地よい。無数のコンテンツから選別する手間も省ける。
だがその心地よさは、常に“自分の延長線上”にある。
既に知っているもの。既に好んでいるもの。既に理解できるもの。長い文章は、この構造に逆らう。
数ページ読んでも結論は出ない。しかし、その「すぐに報われなさ」こそが重要である。
長い文章を読むとき、読者は思考を止められない。論理の流れを追い、違和感を覚え、時に立ち止まる。
そこでは“効率”よりも“過程”が優先される。これは情報を得る行為ではなく、思考を運動させる行為である。
また、レコメンドの外側にある著者の論理に身を委ねるという点でも、読書は異質だ。アルゴリズムではなく、一人の人間の思考の軌跡をたどる。その時間は、自分の嗜好を補強するのではなく、時に揺さぶる。
つまり長い文章とは、効率化された環境から一時的に離脱するための装置である。
それは義務でも必須でもないが、効率の内側に居続けることにわずかな息苦しさを感じているのであれば、その外側に出る手段として、読書は確かな選択肢になる。
読書とは、情報を得るための行為ではない。
効率の支配から、ほんの少し距離を取るための行為である。
効率思考を逆手に取る
長い文章が効率の外側にあることはわかった。
だが問題はそこではない。
効率を重視する社会に生きている私たちが、どうやってその外側に踏み出すのかである。
気合では続かない。理想論でも動けない。
必要なのは、効率思考を否定することではなく、逆手に取ることである。
「誰が書いたか」で選ぶ
私たちは普段、内容そのものよりも「誰が発信しているか」で判断している。
SNSでは、投稿者の知名度やフォロワー数で読むかどうかを決める。内容を精査する前に、発信者のブランドで取捨選択している。
これは怠慢ではない。時間を節約するための合理的判断である。この判断基準を、そのまま読書に持ち込めばよい。
テーマで選ぶのではなく、著者で選ぶ。
「あの人の文章なら読める」「この人の思考を追うのが好きだ」
そう感じられる書き手を見つけることができれば、読書は“努力”から“接触”に変わる。
効率的に読もうとして苦しくなるのであれば、著者を信頼することで、読む負荷は下がる。
読み切らなくていい
長い文章に対する最大のハードルは、「最後まで読まなければならない」という思い込みである。
だが、義務はどこにもない。
情報収集型の読書であれば、必要な箇所だけ読めばよい。体験型の読書であれば、面白ければ自然と続く。
途中でやめても何の問題もない。
完読を目標にするのではなく、接触回数を増やすことを目標にする。
効率を求める思考が「全部読まないと損だ」と考えさせる。だが本来、本は部分的に関わっても成立するメディアである。
余裕を作るのではなく、奪い返す
読書には余裕が必要だ。
金銭的余裕。時間的余裕。精神的余裕。
確かにその通りである。
しかし、余裕ができるのを待っていては、永遠に読めない。現代の情報環境は、余白を自動的に埋める構造になっているからだ。
隙間時間は動画で埋まる。移動時間はSNSで埋まる。就寝前はショート動画で埋まる。
余裕は自然発生しない。
だからこそ、奪い返す必要がある。
効率の流れを一瞬だけ止める。その隙間に、本を差し込むのである。
読書は、余裕がある人の趣味ではない。余裕を奪還するための行為である。
読めなくなった時代に、それでも読むということ地
ここまで見てきたように、読書を取り巻く環境は確実に変化している。
時間が奪われているというよりも、思考の速度そのものが変わった。短く整理された情報に囲まれ、理解は即時性を求められる。長い文章に身を預けることは、以前ほど自然な行為ではなくなった。
読めなくなったと感じるのは、意志の問題ではない。
環境が変われば、行動も変わる。それはごく当たり前のことである。
では、そうした状況のなかで、読書はどのような位置にあるのだろうか。
長い文章は、すぐに結論を提示しない。数ページ読んでも全体像は見えないこともある。だが、その“進まなさ”の中で、読者は著者の思考の運びをたどることになる。
それは情報を受け取るというよりも、思考の流れに同伴する体験に近い。
効率が重視される環境では、既に理解できるものや、自分の嗜好に合致するものが優先される。だが読書は、必ずしも快適さを保証しない。他者の論理に触れることで、時に自分の前提が揺さぶられる。
読書が減っているという事実は、おそらく否定できない。
それでも、本という形式がなくならないのはなぜか。
それは、情報を得るための手段としてではなく、思考の速度を落とす装置として機能しているからではないか。
合理性の観点から見れば、長い文章を読むことは効率的とは言い難い。だが、効率的でない時間の中でしか生まれない思考もある。
読めなくなったと感じるなら、それは時代の変化を正確に体感しているということでもある。
無理に取り戻そうとしなくてもよい。
ただ、ときどきページを開いてみる。最後まで読めなくても構わない。理解しきれなくても問題はない。
読書とは、情報収集でも自己啓発でもなく、思考のリズムを一度ゆるめる行為なのかもしれない。
効率の内側で生きることが当たり前になった時代において、効率の外側に身を置く時間を持つこと。そのひとつの選択肢が、読書である。
参考記事
なぜ読んだ本の内容を覚えられないのか
読んでいるるのに、内容を覚えられない。そんなあなたへの、本の読み方にまつわる1冊。
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日常を手軽に変えられるのが読書です。




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