はじめに — 読む前に押さえておきたいこと
あなたはこんな悩みを抱えていないだろうか?
・選択肢が多すぎて、何を決めればよいか迷ってしまう
・自分の判断に自信が持てず、周囲の評価に引きずられる
・休暇の取り方やキャリアの選択すら、いつの間にか「正解」を意識してしまう
サブスクで映画を選ぶときも、今日のランチを決めるときも、進学先や職業を考えるときも、私たちは日々、数えきれないほどの選択を迫られている。自由に選べることは一見、豊かさの象徴だ。しかし、選択の自由には必ず責任が伴い、社会や周囲の目、制度の枠組みが無意識のうちに私たちの決断に影響を与えている。
では、なぜ私たちは自由に選んでいるはずなのに、迷いや不安を抱えてしまうのか。なぜ「正しい選択」「成功する選択」を意識しすぎて、生きづらさを感じてしまうのか。
本書が示すこと(著者の主張)
本書は、現代社会における「自己決定」とその難しさを丁寧に描き出している。自由に選べる環境は同時に不確実性を生むため、社会や個人は無意識に過剰反応を起こし、選択や行動にストレスを生むことがある。
著者は次のような視点から、私たちが抱える生きづらさを分析している。
・制度や社会規範は、自由に見える選択の中でも、決断を方向づける力を持つ
・他人の目や同調圧力が、自由に選ぶはずの行動を制限してしまう
・完璧に正しい決断をする必要はなく、迷いや弱さを抱えながら生きることが自然である
・自己決定を健やかに行うためには、他者とのつながりが不可欠である
・弱さを前提にした環境や理解が、個人の生きやすさを支える
つまり本書は、「自由に選べる」ところに潜む不確実性と過剰反応を見つめ、現代社会における自己決定の現実と、その中での生き方を示している。
本書を読んで感じたこと(私見)
特に印象的だったのは、「迷いや弱さを抱えながら選ぶことが、むしろ自然であり価値がある」という視点である。
選択は常に理想的なものではなく、失敗や変更も含まれる。進路変更や休暇の取得、職場での意思決定、日常の小さな選択——。どれも、社会のルールや周囲の目を意識せずには行えない場面がある。しかし、弱さを前提に選び、他者とのつながりを大切にすることで、自己決定は健やかさを生む。
また、自由に選ぶことの本当の意味は、単に選択肢の多さにあるのではない。迷いや不安を抱えつつも、自分の価値観に沿って決め、他者との関係性を生かすことにこそある。これに気づくだけで、日々の選択や生き方は少し楽になり、肩の力を抜いて過ごせる。
現代社会は、多くの選択肢と不確実性にあふれている。それでも、自分なりの軸を持ち、ゆるやかに選び、つながりを大切に生きることが、私たちの心の健やかさを支える道である。
「自由に選べる」は、本当に自由なのか
私たちは、何事も「自分で選べる」時代に生きている。
サブスクで何を観るか、今日のお昼に何を頼むか、どの大学に進むか、どんな職業に就くか。すべてが選択の連続だ。「100%自由」とはいかないにせよ、これほど日常の細部まで選択肢が用意された時代は、これまでなかったのではないだろうか。
だが、選べるということは、同時に決断の重みを伴う。
「今日はダラダラ過ごす」という選択は、自分を成長させる機会を手放す決断であり、「有名大学を目指す」という選択は、貴重な青春を勉強に捧げる覚悟と同義だ。何事も選べる社会は、同時に「選んだ結果はすべて自己責任」という現実を突きつける。
選択の自由と責任が同時に押し寄せる時代——。この状況を社会学的視点から考察するのが、本書だ。
【自己決定の落とし穴】(石田 光規 著)
石田 光規
1973年、神奈川県生まれ。東京都立大学大学院社会科学研究科で社会学を学び、博士(社会学)の学位を取得。現在は早稲田大学文学学術院にて教授として在職する。
専門はネットワーク論、人間関係論、孤独・孤立の社会学で、特に「人と人とのつながり――その変化と痛み」を研究テーマとしている。フィールドワークや統計分析を駆使し、社会が個人の関係性や孤立にどう影響するかを探求してきた。
博士論文では企業社会を対象にネットワーク組織の構造変化を分析。その後、研究対象は地域社会、家族、子育て、オンラインのつながりまで広がり、孤立やつながりの喪失の背景と意味を社会学の手法で明らかにしている。
私たちの自己決定の仕組み
私たちが、人のものを盗まないのはなぜだろうか。こんなにモノが溢れている世の中、人の目を盗んでモノを盗ることなど、そこまで難しくはないのではないだろうか。極端かつ倫理観に欠ける行為だが、「今日1日誰かから何かを盗んできてください」と指示された場合、成功する人も少なくないかもしれない。
では、なぜ実際にはそうならないのか。それは「罰則があるから」である。
人のモノを盗ってはいけないという潜在意識は、倫理観だけでなく、刑罰を避けようとする意識からも形作られている。もし窃盗罪という刑罰が存在しなければ、「盗るか盗らないか」の決定は、倫理観や個人の金銭事情だけに左右されることになる。結果として、今よりも犯罪は増えるだろう。
つまり、刑罰をはじめとする社会的ルールは、私たちの選択をある方向に導く働きを持つ。「盗るか盗らないか」という決定は、実はフラットではないのだ。
日常生活の選択も同様である。
数ヶ月に1度会う友人との飲み会の店を選ぶとき、何を参考にするだろうか。SNSやWebサイトの口コミ、星、ランキング。イタリアンがいい、静かな雰囲気がいいと思っていても、気づけば「ランキング上位の店」を調べていることは珍しくない。スコアが高いことと、自分が満足できるかは必ずしも一致しないのに。
サブスクで映画を選ぶ場合も同じだ。上位に表示されるのは、あなたが好みそうなジャンルや新作である。「完全にフラットに観る作品を決められているか」と問われると、多くの場合、ノーとなるだろう。
このように、日常の自己決定は、実際には多くの制約や誘導の下で行われている。選んでいるようで選ばされている、そうなるようにお膳立てされていることが少なくない。私たちの「自由な選択」は、見えないルールや仕組みによって常に形作られているのだ。
自己決定と社会の過剰反応
人々が自己決定できる権利を得るということは、社会にとって不確実性が増すことを意味する。先ほどの例でいえば、「人のモノを盗る人が増える可能性が出てくる」ということだ。この可能性を低減させるために、罰則が規定され、人のモノを盗るという決断を思いとどまらせる仕組みがある。
「窃盗したいと思っても、法律で抑えられる人はほとんどいない」はずだ。しかし、会社の有給休暇を思い浮かべてほしい。
同じ部署に迷惑をかけないよう、有給休暇はできるだけ取らないという暗黙の前提がある場合、制度上は権利が付与されていても、多くの人は「取得しない」を選ぶだろう。同調圧力によって、自由に休むか休まないかという自己決定が後者に寄せられるのである。この圧力は、業務上の不確実性を減らす効果がある一方、当事者には不満やストレスを生む。
社会が必要以上に反応することで、人々は息苦しさを感じるのだ。
別の過剰反応の例もある。
医者を目指す場合を考えよう。「医学部に合格する」という自己決定は、誰にとってもひらかれており、それを実現するための高校や塾も無数に存在する。これらは、自己選択を成功させるための経路・手段である。
もちろん、一度決めた自己決定を貫くことは素晴らしい。しかし、途中で進路変更することも同様に尊い決断だ。職業に貴賎はなく、多くの経験の中で、自分に合う道を見つけることは価値あることだからである。
それにも関わらず、社会や周囲の反応は厳しい。「諦めた」「意志が弱い」と評価されることが多く、当事者は疲弊する。社会の過剰反応は、時に自己決定そのものの行使を困難にしてしまう。
過剰反応は、周囲だけでなく「個人の自己決定尊重」の姿勢からも生じる。
「個人の意志を尊重しよう」という考えは、言い換えれば無関心を推奨するということだ。その人が責任を全うするなら、口出しを控えることが良いとされる。しかし、これが行き過ぎると、「自分さえよければいい」「法律さえ守れば何をしても良い」という考え方が広まり、共通ルールやマナーが守られにくくなる。社会でのちょっとした不快や不便が積み重なり、人々の生きやすさが損なわれるのである。
自己決定が認められる環境では、社会や個人が過剰反応を示すことが少なくない。そして、その過剰反応こそが、人々の生きづらさやストレスの大きな原因となる。一見避けられない現象に思えるが、それでも私たちは、日常生活をどのように営んでいくべきなのだろうか。
私たちはどのように自己決定すべきか
では、このような過剰反応が起こりがちな社会において、私たちはどうしていくべきか。
まず大前提として、「ガチガチに監視された社会も、やはり生きづらい」ということを認識しておく必要がある。多くの選択肢が社会や政府に委ねられる環境では、集団としての不確実性は減る。アクセスできる情報が制限され、将来の進路がひとつに定められ、食事に行くレストランも割り振られる。選ばなくても良い楽さがあり、自己決定に伴う責任から逃れられるが、人間らしいかと問われると疑問が残る。やはり選択してこその人生ではなかろうか。
その上で、健やかに生きるためには、「ゆるやかに自己決定する」ことが重要だ。
自己決定が推奨される社会では、個人は「強い個人」として見なされがちだ。「医者を目指す」という選択をしたのであれば、それを貫くのが当然と見なされる。しかし、人生のさまざまな局面において、人は常に何かを決めているわけではない。「気がついたらそうなっていた」「なんとなく選んだ」「一見すると非合理に思える選択をした」といったことも多い。迷ったり、間違った決定をしたり、決めたことを守れなかったりしながら、人生は進んでいく。
このような「弱い個人」を前提にすれば、自己決定を推奨する社会であっても、人々は今より幾分肩の力を抜いて生きていくことができるはずだ。
弱い個人を前提とした環境をつくるには、他者理解が不可欠である。つまり「つながり」が必要となる。自己決定は推奨されるべきだが、無関心が正しいとされる社会では成立しない。多種多様な人々と接し、それぞれの考え方や背景に触れることで、人は「弱い個人」であることを学ぶ。迷ったり決めたことを守れなかったり、白黒つけられない部分があることを身をもって体感することで、自分にも他人にも、もう少し過ごしやすい環境を提供し合えるようになる。
こうして考えると、自己決定とは「絶対的に強くあること」ではなく、「弱さを抱えたまま、他者との関わりの中で選び取っていくこと」なのだ。これを理解することこそが、私たちが生きやすさを獲得する第一歩である。
自由と責任の間で — ゆるやかな選択のすすめ
現代は、かつてないほど選択肢が多い時代である。サブスクでの映画選びから進学先、職業選択に至るまで、自由に選べるようになった一方で、選択には責任も伴う。人は無意識に、社会のルールや情報の提示の仕方によって「選ばされている」ことも少なくない。さらに、自己決定が周囲や制度に不確実性を生み出すことで、時には過剰反応が起こり、生きづらさやストレスを感じることもある。
こうした状況で大切なのは、「ゆるやかに自己決定する」ことだ。完璧に正しい選択をする必要はなく、迷いや間違いを抱えたままでも、少しずつ自分の人生を作っていけばよい。自分の決定を責任をもって受け止めつつ、周囲との関わりの中で調整することが、健やかな生き方につながる。
また、他者とのつながりを意識することも重要である。迷いや弱さを共有できる関係があることで、自己決定のプレッシャーは和らぎ、日常の選択も少し軽くなる。孤立せずに、多様な人々と関わることが、生きやすさを支えるのだ。
社会や制度の制約は完全な自由を奪うものではなく、むしろその枠組みの中でどう選ぶかを考えることが、自己決定の力を高める。自由に選ぶことの本当の意味は、単に選択肢の多さにあるのではなく、迷いや弱さを抱えたままでも自分らしく選び、他者とのつながりを大切にすることにある。
自己決定とは、強くあろうとすることでも、完璧に独立することでもない。迷いながらも選び、つながりを生かすことで、少しずつ生きやすい日々を築いていけるのだ。
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