「ものすごい頻度で美術館を訪れるわけではないけれども、行くと神聖な気持ちになる」「日常生活とは異なる、アカデミックな物事に対して思考を働かせている気分になる」といった人は多いのではないだろうか。自分ものその一人である。
一方、多くの美術品に対して、こんなことを思うことはないだろうか。
ー なんか目を引かれる作品だけれども、何を描いているのかが分からない ー
ー 色使いが鮮やかだけれども、作者のどんな心情を表現しているかに対する解釈が難しい ー
よほどその美術展のテーマに対する深い知見を持っていない限り、作品に対して何らかの疑問や不明点を持つことがほとんどであると思う。作品のインパクトやわかりやすいイメージにより何となくその凄さや素晴らしさを感じ取ることができる一方、このような疑問や不明点に対する正解を知らないため、「神聖さや充実感を感じているものの、100%の理解ができないことに対する少しばかりのモヤモヤ感が残る状態」となるのである。
では、美術に対する知見が深まれば、作品を正しく理解する知識を持っていれば、100%美術展を楽しめるのか。そんな疑問を解消してくれるのがこちらの書籍である。
【「学芸員しか知らない 美術館が楽しくなる話】(小さな美術館の学芸員・著)
著者曰く、現代アートというもとは、たとえその作者(アーティスト)自身であっても、その意味を言葉では説明できないのかもしれないものであるという。ピカソやモネが味わえるのは、時間の経過の中でその作品に対する理解が進み、美術的な価値を説明できるからだそうなのだが、現代アートには説明できるだけの理解が進んでいないことがその理由である。そのため、現代アートを鑑賞する上では「100%の理解ができないもの」という前提に立たなければならない。
では、どのようにして現代アートを楽しめば良いのか。
著者曰く、
①揺れ動く自信の感情に身を任せること
②分からない状態を楽しむこと
の2点を意識するのが良いそうだ。
国語、数学、理科、社会などの教科の1つとして美術が存在しているが、美術とその他の教科との大きな違いは、「正解が限定的で、その答えを導き出すか否か」である。美術という教科においては、限られた1つの答えが存在することがほとんどなく、それが故に「答え合わせ」ができない。美術展においても、解説文に目を通した後、その内容を正解として答え合わせ(鑑賞)をすることはもったいないことなのではないかと説いている。分からない状態を楽しみ、見る前と見た後の感情の変化を感じ取ることで、能動的に学びたいと思える何かに出会える可能性が広がり、これこそが美術鑑賞の魅力・美術展の本来の意義であるという。
最後に、改めて美術展の味わい方について記載する。
まずは上述の通り、美術鑑賞というものは「揺れ動く自分の感情に身を任せること」「分からない状態を楽しむこと」が大切であることを認識しておく。答え合わせをして正しい理解・解釈をすることだけを求めてはいけない。
次に具体的なアクションであるが、これは「最初は美術展の全体をぐるっと回り、何となくストーリーや企画の意図を認識したのち、琴線に触れた作品を重点的に味わう」といったものとなる。順路通りに進みつつ、解説文をしっかり読んで正解を求めることにこだわり過ぎると、自分の芯にある知的好奇心をくすぐることは難しい。
また、固定概念からの脱却にも気をつけたい。現代社会においては「タイパ」「ぱっと見でもわかりやすい作品」が求められがちであり、アートに対してもこの思想を当てはめてしまいそうになる。確かにある程度の知識を解説文で補強することや、インパクトのあるわかりやすい作品を鑑賞することで、正しく解釈できている状態を実現することができるが、「能動的に何かを学びたいと思える感覚」に出会える可能性を狭めてしまうこととなる。壮大な時間や無駄な手間をかけてこそ、自分が本当に学びたい何かと出会うことができるのだから、普遍的な正解を求めることに傾倒しすぎるのは良くないことを覚えておこう。
著者曰く、学芸員は「作品を解釈するための最低限の知識を提供してあげること」と「知識を押し付けすぎて、解釈の幅を限定的にしてしまうこと」のジレンマと戦う職業なのだという。どのような前提で作品を鑑賞しているのか、学芸員に直接届けることは難しいものの、そのジレンマを頭の片隅において、美術館へ出かけてみてはいかがだろうか。
コメント