「見えない世界」の見え方

脳科学・心理学
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「ここだけはおさえて」ポイント

  • どんな人におすすめ?
     異なる視点を学びたい人/「目が見えない」とはどういうことか知りたい人/日常から離れて思考を深めたい人
  • ポイント①
     目が見えない人は、目が見える人より「劣っている(=五感を完全に使えない)」のではなく、単に別の方法で世界を感じているだけである。
  • ポイント②
     重要なのは優劣ではなく、「こっちの世界」と「あっちの世界」という感覚で互いの違いを尊重する姿勢を持つこと。
  • ポイント③
     障害を「なくす」ことで、目が見えない人たちの独特な視点や、それがもたらす可能性を失ってしまう危険性もある。
  • 読みやすさ:★★★
     「なるほど」と思える気づきは多く、初めて読む人にも優しい内容。一方で、深く考えるほど理解が広がり、思考の深さ次第で難解さが変わる1冊

スキル本だけではない、新しい世界の楽しみ方

書店に並ぶスキル本は実用的で、役立つものが多い。論理的思考やデザイン思考など、「物事の別の見方」を教えてくれる本は読みやすく、仕事や生活にもすぐ生かせる内容であるため、多くの人に支持されている。

しかし、視点を変える方法はそれだけではない。物事の捉え方は五感を通じて得られる情報にも左右される。五感の使い方が異なれば、感じ方や見え方も大きく変わるのだ。

では、もし「視覚」を使わずに世界を感じるとしたら、どのように捉えることができるのだろうか。そんなテーマを掘り下げ、新たな気づきを与えてくれる一冊がある。

目の見えない人は世界をどう見ているのか】(伊藤亜紗・著

この本は小説ではなく、どちらかといえば自己啓発書に近い。しかし、仕事のスキルアップに直結するわけではない。それでも、読後には「新しい視点が開けた」という爽快感が得られる一冊だ。

例えば、日常的に当たり前だと思っている「五感」について深く考えたことはあるだろうか。この本では、視覚を持たない人がどのように世界を感じ、解釈しているかを紹介している。難しい理論はなく、具体的なエピソードを通して「そういう見方もあるのか」と自然に気づかせてくれる。

学生時代の国語教科書に載っていても不思議ではない内容である。読みやすく、深く考えさせられる一冊だ。本を読むのが得意ではない人にもおすすめできる。

少しでも新しい視点や世界を知りたいと思ったら、この本を手に取ってみてほしい。きっとこれまでにない感覚が得られるはずだ。

目が見えないことは、劣っていることではない

「聴覚・触覚・嗅覚・味覚・視覚」という五感を使って世界を捉えるとするならば、目が見えない人は世界の80%程度しか理解できないのではないか。これは、読了前の自分のイメージであった。

しかし、同書を読むと、そうではないとわかる。目が見えない人は、
「聴覚・触覚・嗅覚・味覚を25%ずつ使い、目が見える人とは異なる形で世界を捉えているだけだ。受け取る情報の種類は減るが、世界全体の捉え方が劣っているわけではない」
というのである。

同書では、目が見える人を「四本脚の椅子」、目が見えない人を「三本脚の椅子」に例えている。どちらもそれぞれ独自のバランスを保つ仕組みを持ち、一方が他方より優れているわけではない。むしろ、四本脚の椅子は一本でも欠けるとバランスを崩してしまうため、「目を瞑ること」と「目が見えないこと」は、同じ「視覚の不在」でありながら全く異なる状態であることがわかる。

「月をイメージしてください」と言われたら、どのような月を思い浮かべるだろうか。満月、三日月、大きい月、小さい月……多くの人が「平面の月」を想像するのではないだろうか。

一方、目が見えない人の多くは、月を三次元的にイメージすると言われている。月は実際に三次元の物体であるため、「目が見えない人の方が世界を正確に捉えている」とも解釈できる。視覚的な情報——例えば絵本やイラスト、絵画など——に頼って月を認識してきた目が見える人の方が、その情報に囚われ、誤ったイメージを抱く可能性があるのだ。

「目が見えない」ということは、必ずしも劣っていることではない。

「違うからこそ面白い」世界の見え方

前述の例を読んで「へぇ〜」と思った人もいるだろう。それだけでも、この本には読む価値がある。しかし、ここからはさらに思考を深めてみたい。

実は、目が見えない人でも走り高跳びができるという。

「バーが見えないのではないか?」という疑問はもっともだ。答えは当然イエスである。では、目が見えない人にとっての走り高跳びとは、どんな意味を持つ運動なのだろうか。

彼らは頭の中でバーの高さや位置を想像し、そのイメージに従って体を動かす。このプロセスは、目が見える人が行う「ダンス」に近い。「こう動こう」とイメージした通りに身体を動かす運動であり、走り高跳びは目が見える人と同じ意味を持たないどころか、異なる次元の価値を持つ活動といえる。

次に、パスタソースを選ぶ場面を想像してほしい。

多くの人は、視覚的な情報——パッケージのデザインや賞味期限、ストックの数——を参考にソースを選ぶだろう。しかし、目が見えない人はどうやって選ぶのだろうか。手触りが同じパスタソースであれば、選択はほぼランダムになる。

たとえば、ミートソースが食べたい気分でも、それを引き当てられるとは限らない。意図せず昨日と同じ味を選んでしまうこともある。しかし、その選択には「運試し」や「ワクワク感」のような、目が見える人には感じられない楽しさが存在するのだ。

目が見えないことは、不便だと思われがちである。しかし、これらの例を踏まえると、目が見えない人の捉え方には意外な面白さがある。それは、見える人とは異なる「世界の見方」を持っているからこその魅力といえる。

「そっちの見える世界の話も面白いねぇ!」

この言葉は、本書に登場する目が見えない人が、著者(目が見える人)との会話で発したものである。この一言には、多様な視点を受け入れる寛容さと、お互いを理解することの大切さが込められている。目が見える人、見えない人に限らず、異なる背景を持つ人と共に生きる社会において、この感覚こそが重要なのではないだろうか。

社会がつくり出す『障害』の見方を問い直す

(産業社会の中で発展した、大量生産・大量消費を実現するために)労働が画一化したことで、障害者は「それができない人」ということになってしまった。

(中略)

「パスタソースを選べないこと」は社会モデルの定義に従えば「障害」です。しかし障害をなくすことは、見えない人のユーモラスな視点やそれが社会に与えたかもしれないメリットを奪うことでもあります。

もちろん味を選べた方がいいのは当然です。しかし、見えない人と見える人の経験が100%同じになることはありません。見える人がパックのビジュアルから想像する「味」と、見えない人が例えばパックの切り込みで理解する「味」は、決して同じものにはならないでしょう。違いをなくそうとするのではなく、違いを活かしたり楽しんだりする知恵の方が大切である場合もあります。

「目が見えない」=「劣っている」=「かわいそう」=「障害を解消しなければならない」という固定観念に対して、本書は根本的な問いを投げかけている。「障害はなぜ悪いものと思われるのか?」という疑問を自然と抱かせる内容だ。

この本が読み応えを感じさせる理由の一つは、平易な文章でありながら深いテーマを提示する点にある。難しいと感じるのは、それが私たちの当たり前を揺さぶる問いを投げかけてくるからにほかならない。

まとめ – 「違う世界」を知り、自分の「当たり前」を問い直す –

本書を通じて、「目が見えない人の見方」に気づくだけでも、十分に価値がある体験になるだろう。しかし、この本の真価は、それだけにとどまらない。読者自身が「違うもの」に対してどんな姿勢で向き合っているか、自分の中の「当たり前」をどう捉えているかを考え直すきっかけを与えてくれる。

噛めば噛むほど深みが出る、まさにスルメのような一冊だ。「読んだら視点が変わった」と感じる経験をぜひ味わってほしい。

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