理不尽は消えない。だから「扱い方」を変える

自己管理・ライフハック
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はじめに — 読む前に押さえておきたいこと

あなたはこんな悩みを抱えていないだろうか?

日々の業務の中で、「なぜこれがこうなるのか分からない」と感じたことはないだろうか。

同じように努力しているはずなのに、評価が分かれる。理不尽に思える指示が飛んでくる。納得できない人間関係に振り回される。

ある上司は信頼され、別の上司は不満を持たれる。似たような振る舞いでも、「任せてくれる人」と評価されることもあれば、「丸投げする人」と受け取られることもある。

自分なりに良かれと思って取った行動が、意図とは異なる形で受け取られる。その結果、「何が正解なのか分からない」という感覚だけが残る。

また、周囲を見渡してみても、「なぜあの人が評価されるのか分からない」と感じる場面は少なくない。

能力が高いようには見えないのに評価される人もいれば、実力があるにもかかわらず報われていない人もいる。

こうした状況に対して、「結局は人柄の問題だ」「相性の問題だ」と片づけることもできる。しかし、それでは説明しきれない違和感が残るはずである。

なぜ同じように見える行動が、あるときは正しく、あるときは間違っているように見えるのか。

なぜ、自分ではコントロールできない要素によって結果が左右されるように感じるのか。

その正体は、多くの場合「理不尽」に見える。

本書が示すこと(著者の主張)

ここで扱われるのは、理不尽そのものをどうなくすかではない。

むしろ前提として、理不尽は避けられないものとして存在する。その上で、それにどう向き合い、どう扱うかという視点が提示される。

私たちは、目の前の出来事をそのまま受け取っているようでいて、実際には無意識のうちに意味づけを行っている。そしてその解釈が、「納得できる/できない」「正しい/間違っている」といった感覚を生み出している。

同じ出来事であっても、それをどう捉えるかによって意味は大きく変わる。理不尽だと感じることもあれば、仕方のないことだと受け止めることもある。

この違いを生み出しているのが、出来事そのものではなく、その解釈である。

さらに重要なのは、この解釈が固定されたものではないという点である。

人は経験や状況に応じて、同じ出来事に対して異なる意味づけを行う。つまり、理不尽であるかどうかは、ある程度までは「どう捉えるか」によって変わりうる。

ここで提示されるのは、正解となる行動ではない。理不尽な状況の中で、どのように意味づけを行い、どう振る舞うかという“扱い方”である。

本書を読んで感じたこと(私見)

印象的なのは、「正しい行動を選ぶこと」そのものの限界が示されている点である。

これまで当たり前のように、「何をすべきか」に意識を向けてきた。しかし実際には、それだけでは状況は好転しない。

なぜなら、同じ行動であっても、その意味は後からいくらでも変わりうるからである。

重要なのは、行動そのものではなく、それをどう解釈し、どう位置づけるかである。

理不尽をなくすことはできないが、その受け取り方を変えることはできる。挫折を避けることはできないが、その意味を変えることはできる。行動の結果を完全にコントロールすることはできないが、選択の基準を持つことはできる。

この視点に立つと、「なぜうまくいかなかったのか」という問いの立て方も変わる。行動の是非ではなく、その出来事をどう扱ったかが問われるようになる。

ここで扱うのは、スキルやテクニックではない。

理不尽な世界の中で、それでも前に進むための「考え方の前提」である。

この前提を持つことで、これまで漠然としていた違和感は、「どう扱うか」という問いへと変わっていくはずである。

理不尽と折り合いをつける技術

どのような生き方を選んだとしても、理不尽から逃れることはできない。会社という構造そのものに起因するものもあれば、身の回りの人間関係によるもの、あるいは時代や世の中の空気によって生まれるものもある。

こうした理不尽に対して、どこかで折り合いをつけられるようになること。それが一般に「社会性を身につける」ということなのだろう。しかし実態としては、それは“うまくやり過ごすこと”や“自分を納得させること”に近く、簡単に身につくものではない。

むしろ問題なのは、理不尽そのものよりも、それにどう向き合えばいいのかがわからないことである。多くの人が同じように悩んでいるにもかかわらず、その扱い方について体系的に考える機会はほとんどない。

だからこそ、ここで一度、他者の視点を借りる価値がある。

組織構造を専門とする立場と、理不尽を日常的にネタへと昇華する芸人という立場。一見交わらないように見える二つの視点から、理不尽にどう向き合い、どう扱うかが立体的に描かれていく。

理不尽を「なくす」ことはできない。だが、「扱い方」を変えることはできる。その前提に立ったとき、見える景色は大きく変わる。

理不尽仕事論 「クソが!!」と思った時に読む本】(坂井 風太・ぐんぴぃ  著)

坂井 風太

1991年生まれ。早稲田大学法学部卒業後、2015年にDeNAへ入社。複数事業を経験し、子会社代表として経営やM&Aに従事する一方、人材育成責任者として独自の育成プログラムを開発。2022年に人材開発・組織強化を支援する企業を創業し、産業組織心理学の知見をベースに企業支援を行う。ビジネスメディアでも発信を続け、理論と実務を横断する視点でキャリアや組織の課題を捉えている。

ぐんぴぃ

1990年生まれ。青山学院大学経営学部卒業。大学の落語研究会をきっかけにお笑いの道へ進み、2017年にコンビ「春とヒコーキ」を結成。街頭インタビューを契機に「バキ童」として注目を集め、YouTubeを中心に人気を拡大。現在はチャンネル登録者数200万人規模の発信力を持ち、テレビ・ラジオ・舞台など多方面で活動している。芸人になる前には書店運営に携わり、店舗売上全国1位を達成するなどビジネス面での実績も持つ。

挫折は「経験」ではなく「解釈」で決まる

人生において挫折を経験した人はどのくらい存在するのだろうか。感覚的には、大なり小なり何らかの挫折を経験している人がほとんどだろう。

では、その挫折は自分にとって必要な経験だったのか。そう問われると、答えは簡単ではない。

挫折を経験せず、順調に物事が進んでいく人生は魅力的に見える。望んだ地位や収入を手に入れ、理想をそのまま実現していく方が、わかりやすく心地よいからだ。

一方で、挫折をきっかけに自分の強みや立ち位置を見直し、その後の人生に活かしている人も少なくない。むしろ、挫折を起点にして思考を深め、「それでもどう立ち回るか」を突き詰めた結果として道を切り開いていくケースも多く見られる。

こうして並べてみると、「挫折は必要かどうか」という問い自体が、あまり意味を持たないことに気づく。重要なのは、その経験があったかどうかではない。

その経験をどう解釈するかである

同じ挫折でも、それを「糧になるもの」と捉えるか、「ただのダメージ」として受け止めるかによって、その後の意味合いは大きく変わる。

「自己成長」として捉えるとは、「この経験はどこかで活きる」「ここから学べることがある」と解釈することである。振り返ってそう思うこと自体は難しくない。しかし、渦中にいるときに同じ視点を持つことは容易ではない。挫折とは、何かに本気でコミットしているからこそ起きるものであり、だからこそ喪失感も大きい。

ただし、この視点を持てるかどうかで、思考の向きは変わる。目の前の一点に閉じてしまうのではなく、「この経験をどう扱うか」という問いに意識を向けることができるからだ。

一方で、「ダメージ」として捉える場合、人は他者との比較に引きずられる。「自分は何をやってもダメだ」と結論づけたり、あるいは自分が持っていないものを持つ他者を過小評価することで、心のバランスを取ろうとする。いわゆる仮想的有能感である。

しかし、この解釈は自分を守るようでいて、同時に可能性を閉じる。他者への攻撃性は、そのまま自分の選択肢の狭さとして返ってくるからだ。

結局のところ、「挫折を経験すべきかどうか」という問いに意味はない。問うべきはただ一つ、その挫折をどう解釈するかである。

人には必ず得意不得意がある。その前提を受け入れた上で、自分の経験をどう位置づけるかを選び直すこと。それができたとき、過去の挫折は単なる出来事ではなく、これからの行動を方向づける材料へと変わる。

なぜ人は「やらなかったこと」を後悔するのか

「やらない後悔」より「やって後悔」

リスキリングやキャリアの積み上げに人々が熱心になっている現代において、よく耳にする言葉である。

では実際のところ、あなたはどちらを選ぶだろうか。これまでの経験からも直感的には理解しているはずだが、結論から言えば「やって後悔」の方が合理的である

重要なのは、これが単なる精神論ではなく、人間の認知の仕組みによって説明できる点にある

人は人生の終わりに近づくほど、「やらなかったこと」を後悔する傾向がある。やりたいことをやらなかった、会いたい人に会わなかった、行きたい場所に行かなかった。こうした「不行為後悔」は、多くの人に共通して現れる。

一方で、「やらなければよかった」という後悔、すなわち「行為後悔」は相対的に小さい。これは年齢を重ねたときだけでなく、日常の中でも同様である。多くの人が抱えている後悔の大半は、「やってしまったこと」ではなく「やらなかったこと」なのだ

ではなぜ、この差が生まれるのか。

一つ目は、人間の記憶の偏りにある。いわゆるツァイガルニク効果と呼ばれるもので、人は完了したことよりも、未完了のことを強く記憶する。終わった出来事は時間とともに処理されていく一方で、「やっていないこと」は未処理のまま残り続ける。

例えば、夏休みの宿題を思い出してみるといい。すでに終えた課題の苦労はすぐに薄れていくが、手をつけていない課題は常に頭の片隅に残り続ける。「まだやっていない」という状態そのものが、記憶に残り続けるからだ。

二つ目は、人間が持つ「心理的免疫」である。人は、自分の選択によって生じたネガティブな出来事を、そのままの形で保持し続けることができない。どこかで意味づけを行い、「結果的にはよかった」と再解釈する

たとえ失敗であっても、「あの経験があったから今がある」と捉え直すことができる。一方で、そもそも行動していない場合、この再解釈の材料自体が存在しない。「やらなかった」という事実は、そのまま未処理の後悔として残り続ける。

つまり、「やって後悔」は時間とともに処理されていくが、「やらない後悔」は処理されずに残り続けるという非対称性がある

この構造を理解すると、意思決定の基準はシンプルになる。

どちらを選ぶか迷ったときは、「どちらがより長く残る後悔か」で考えればいい。

短期的な失敗や痛みは、いずれ意味づけによって回収される。しかし、行動しなかったという事実は、後から取り返すことができない。

だからこそ、「やって後悔」を選ぶべきなのである。

「今しかない」は見極めるものではなく、つくるもの

人生でやりたいことがある人は、どのくらいいるのだろうか。同書では24.5%という数字が示されている。

裏を返せば、4人に3人は「何をやりたいのかがわからない」状態にあるということだ。「大切なことに時間を使え」と言われても、その“大切なこと”自体が定まっていない人の方が多数派なのである

こうした状況の中でよく語られるのが、「外発的動機」と「内発的動機」の違いである。報酬や評価のために動くのではなく、「楽しいから」「意味があるから」動くべきだ、という文脈だ。

しかし実態は、そこまで単純ではない。

最初は気が進まなかったのに、続けているうちに面白くなってきた。そんな経験は誰にでもあるはずだ。外発的なきっかけで始めた行動が、途中から内発的な動機に変わることは珍しくない。

人は大きく三つに分かれる。外発的動機でしか動けない人。外発から内発へと移行する人。そして最初から内発的に動ける人だ。

にもかかわらず、現代は「最初から内発的に動ける人」だけが称賛されやすいその結果、それ以外の人は「やりたいことが見つかるまで動けない」という状態に陥る

ここで必要になるのが、「とりあえずやる」という発想である。

やる気があるから行動するのではない。行動するからやる気が生まれる。この順序の逆転は、一見すると根性論に見えるかもしれないが、実際には極めて現実的な戦略である。

ただし、ここでいう「やる」は、孤独な努力を意味しない。

人は、自分一人の意思だけで継続することが難しい。「見てくれている人」がいるとき、はじめて踏ん張ることができる。「昨日よりよくなっている」と言ってくれる存在があることで、行動は持続する。

つまり、自律とは自分を律する力ではなく、「依存先を増やす力」である

そしてもう一つ、行動を引き起こす強力なトリガーがある。それが「今しかない」という認識である

多くの人は、「最適なタイミング」を待とうとする。条件が整い、リスクが最小化され、納得できる状態になってから動こうとする。しかし実際には、そうした“完璧な今”が訪れることはほとんどない

転職や結婚、住宅購入といった大きな意思決定でさえ、「このタイミングが最適だった」と確信を持って選ばれているわけではない。振り返ってみれば、「あの時動いた」という事実があるだけだ。

だからこそ、「今しかない」は見極めるものではない。そう思い込むことで、はじめて成立するものである。

「楽しそうだからやる」「なんとなく今だと思ったから動く」。そうした一見曖昧な動機が、大きな意思決定を支えている。

やりたいことがなくてもいい。最初から内発的である必要もない。条件が揃うのを待つ必要もない。

行動は、きっかけと環境と解釈でつくることができる。

「今しかない」と思えるかどうか。その一点が、動けるかどうかを分ける。

理不尽な世界で、それでも動き続けるために

ここまで見てきた通り、避けることのできない理不尽の中で生きる以上、重要になるのは「何を選ぶか」ではなく、「どう扱うか」である

理不尽そのものをなくすことはできない。だからこそ、その前提を受け入れた上で、折り合いのつけ方を身につける必要がある。

そして、理不尽の中で生じる挫折もまた、避けることはできない。しかしその意味は、出来事そのものではなく、その解釈によって決まる。ダメージとして閉じることもできるし、次の行動につながる材料として扱うこともできる。

その上で、行動するかどうかの判断はシンプルになる。「やらない後悔」と「やって後悔」で迷ったとき、長く残るのは前者である。人の認知の構造上、行動しなかったことは処理されずに残り続けるからだ。

では、どうすれば動けるのか。

やりたいことが明確である必要はない。最初から強い動機を持っている必要もない。むしろ、多くの人はそうではない状態からスタートしている。

だからこそ、「とりあえずやる」という選択が意味を持つ行動が先にあり、その後に動機がついてくる。そして、その行動を支えるのは、自分一人の意思ではなく、他者との関係性である

自律とは、孤独に耐える力ではない。支えてくれる環境を自らつくりにいく力である。

そして最後に残るのは、「今しかない」という感覚だ

最適なタイミングは待っていても訪れない。だからこそ、自分でそう思い込むことでしか、行動のスイッチは入らない。「今しかない」と決めた瞬間に、そのタイミングは初めて成立する。

理不尽はなくならない。挫折もなくならない。迷いも消えない。

それでも、解釈を変え、選択の基準を持ち、行動のきっかけをつくることはできる。

完璧な準備が整う日は来ない。だからこそ、不完全なまま動き出すしかない。

その一歩を踏み出すための視点を、ここまで見てきた。

あとは、それをどう使うかである。

あなたらしさとはなんですか?

自分軸の探し方がわからない現代人へ。

若者目線で捉える、今の世界

外発的動機に頼りすぎていると感じるあなたへ。

あなたの悩みは何からくるのか

解釈を変えるだけで、不安がちょっとだけ楽になります。

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